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統一教会の現役信者は「信仰者」なのか──『統一教会・現役二世信者たちの声』を読んで

瓜生崇さんの著書『統一教会・現役二世信者たちの声1を読みました。

本書は、統一教会(現・世界平和統一家庭連合 以下「統一教会」)の現役2世信者8名、教団職員2名、そして「反対派」1名へのインタビューを通じて、著者自身の考察も交えながら構成されています。

瓜生さんは一貫して教団に批判的な立場をとりながらも、「壁の向こうの声」と表現された現役信者たちの声に丁寧に耳を傾け、彼らの語りから「彼らの信仰とは何か」「社会は統一教会とどのように向き合うべきか」といった問いを投げかけています。

目次

本書に対する私のスタンス

けれども、私は統一教会の「2世元信者」として、本書を瓜生さん以上に批判的に読みました。なぜなら、私はインタビューに登場する方々と同じ統一教会の信者家庭で育ち、同じ「信仰」をもつようになった、いわば「身内」からです。

また、このような本が教団の宣伝(プロパガンダ)として機能してしまったり、教団による加害の構造を「見えない化」してしまう危険性があることも、重々感じています。

そして教団による被害を訴える方の感情を逆撫でする面があることも否めません。

けれども、だからといって現役信者の「声」を聞くべきではないとは思いません。それは、それこそ一部の現役信者らが盛んに主張してきた「テロリストに言葉を与えるな」という姿勢と同じことになってしまうからです。

そして何より、私はかつて信者として教団に身を置いた加害性を自覚しています。だからこそ、現役信者たちの言葉に対して、私は瓜生さん以上に厳しく批判的な視点をもたざるを得ません。

信仰(faith)か、信念(belief)か

本書を読んでまず感じたのは、インタビューに登場する現役信者の方々が本当に「信仰(faith)」を持っているのか、という疑問でした。

彼らの言葉からは、神仏などの超越的な存在に対する畏れや敬意から滲み出るような「信仰者」特有の謙虚さや柔和さをあまり感じることができませんでした。むしろ、問題に対する理解が浅いまま「神(あるいは教祖)」や「居場所」を信じたいという「信念(belief)」にしがみついているように見えたのです。

冒頭で瓜生さんは次のように述べています。

私たちは正しいことを知りたいのではなく、自分が決めた「正しさ」を信じたいだけなのではないだろうか」

著者・瓜生崇氏, p.24

著者のこの言葉は「信者の声に耳を傾けようとしなかった世間」に向けて発されたものですが、私はむしろこの問いを統一教会現役信者・2世の側に突きつけたいと思います

信仰者とは、本来、神仏などの超越的な存在に対する畏れや敬意を持ち、立場を越えて人の痛みや悲しみに寄り添い、そして常に問い続ける存在であると思います。しかし、問われている自分の教団の過去を知ろうとしない、向き合おうとしない姿勢の中に、果たして本当の信仰(faith)があるのでしょうか。2

本書には、そのような観点から言及したい箇所が山のようにあり、本が付箋だらけになってしまっています。今回は、その中でも特に気になった「隠す」ということについてのみ述べたいと思います。

「隠す」ということ

統一教会の信仰を語る上で「隠す」という行為はポイントになる部分だと私は思います。以下に述べるように、統一教会において信仰とは「隠すもの」であり、勧誘にあたっては教団名を隠して伝道していた過去があるからです。

本書に登場する現役2世の発言から、この2つの「隠す」について考えてみました。

信仰は「隠すもの」だった

今まで教会の外の人に、自分の信仰を話す事はほとんどなかったんです。でも事件が起きたから、瓜生さんみたいに、同じ信仰でない人が私たちに目を向けてくださる。そして改めて「なんで自分はこの教会にいるの?いなくてもいいのに、いることを選択した自分てなんだろう」って、考えることも言葉にすることも増えた。それはプラスかもしれない。今までは信仰は隠すものだったから。
私が小さい時にオウム事件があって、当時も統一教会にいい噂はなかった。だから、あんまり教会のことをお友達に言っちゃだめだよって言われてた。でもこうして今、自分たちの信仰を家庭連合じゃない人に話せるってすごい、ありがたいなって。

ミユキさん(30代・祝福2世), p.52

私自身も同じ体験をしてきました。小さいころ、親から(教会外の)「サタン世界」「非原理世界」で教会や真理の教えを口に出すと(神側がまだ勢力が弱いから)サタンにやられてしまう。だから言わないようにという旨のことを言われた記憶があります。

また大人になり、最も親しかった同級生に統一教会の信仰のことを話したところ、彼の表情は明らかに固まり、このことが瞬く間に他の友人や恩師にまで広まってしまいました。なんだか後ろめたくなり、以来、私は二度と母校には足を運ぶまいと決めています。

本来、信仰とは心の支えであり誇りであるはずのものなのに、それを「後ろめたいもの」「隠さなければならないもの」という心理の中で育つことは、今思えば非常につらく、苦しく、明らかに精神を蝕むものです。

信仰があるからこそ胸を張れるのではなく、むしろ顔を伏せて生きる。これは、果たして信仰(faith)といえるものなのでしょうか。

彼女は自分の信仰を私に話すことを不思議と喜んでいた。それは彼女だけではなく、他の人も同様であった。日本の統一教会はずっと評判の悪い団体で、信仰は隠すものだった。私のような外部の人間が、こうして彼らの信仰を聞く事は本当になかったのだろう。もっと社会が彼らの内面に関心を持ち続けていれば、あの事件はひょっとしたら防げたのかも知れない。

著者・瓜生崇氏, p.56

著者の瓜生さんは、この問題を社会の責任として捉えて下さいました。そのことは、元信者ながら当事者として大変ありがたいことと感じています。

しかし私は、社会を「非原理社会」「サタン世界」などと上から目線で見下し「復帰」(事実上の服属)の対象として認識させてしまった教団の教義と組織方針にも問題があったということを指摘せざるを得ないのです。

正体隠し勧誘何がダメなのか分からない」

本書の中でトモキさん(30代・祝福2世)が「正体隠し伝道の何がダメなのか分からない」と語り、著者の瓜生さんと激しい議論を交わす場面があります。3

瓜生さんは「悪いやり方を反省せず教団名を隠す詐欺的な行為自体が問題だ」と指摘するのですが「正体隠しで勧誘されても1週間以内には統一教会だってわかるし、わかった時点で入教しない人もたくさんいる。それに嫌ならいつでも脱会できる」「名前を隠して勧誘されたことに怒ってるのは本人じゃなくて、全国弁連などの第三者だ」といった反論を加えます。4

この発言には、怒りと悲しみを覚えました。

いわゆる「正体隠し伝道」をひとことでいえば「騙す」行為です。統一教会という名前を出すと断られることが分かり切っていたから、意図的に教団名を隠し勧誘対象者を騙して入信させたのです。これは詐欺的な行為であることは言うまでもありませんが「何がダメなのか分からない」……。

一般的には理解し難い考え方ではありますが、私はすぐ「ヤコブ路程」という統一教会の教義を思い浮かべました。ここでは詳しい説明を省きますが、これは旧約聖書に出てくるヤコブの物語になぞらえた宗教的救済への「公式」であり、その中には「神の願う目的のためなら騙すことも善になる」という解釈も含まれています。

もし、こうした詭弁ともいえる論理が教団内で常態化し、しかも倫理観の歪として既に2世世代の中でも内包化してしまっているとすれば、事は深刻です。このような歪んだ「信念(belief)」は人を鈍感にし、他者の痛みに無関心にさせます。いずれ新たな問題行動に繋がる懸念さえ払拭できません。

そして私は、これが信仰者・宗教者を自認する人々の思考・態度であることに大きな問題と危機感を覚えます。

現役信者の声を「聞く」こと、そして「批判する」こと

本書が現役信者の声を取り上げたことについて「教団のプロパガンダに加担しているのではないか」「被害者の感情を逆なでするのではないか」といった批判があるかもしれません。その懸念には一理ありますし、私自身も読みながら複雑な感情に何度も襲われました。

しかし、それでも「声」を聞くことは必要だと思います。声を記録し、公開することによって、私たちはその中身を吟味し、批判することができるからです

今回は「隠す」というテーマについてしか扱えませんでしたが、それだけでも根深い問題の存在が明らかになりました。これも彼らの率直な「声」を聞いたからこそです。

私は、瓜生さん以上に、厳しい批判を投げかけたつもりです。それでも、私自身がかつて内側にいた人間だからこそしなければならない責任だと思っています。

おわりに

統一教会の2世として生まれ育った私は、瓜生さんのような外部の観察者よりも、インタビュー対象となった信者の方々にずっと近い立場にいました。けれども今はそこから離れ、「信仰(faith)」の名のもとに生じたさまざまな加害構造に向き合おうとしています。

だからこそ、彼らの語りをただ受け入れるのではなく、しっかりと向き合い、時に批判し、問い直していきたいのです。それが、「信仰(faith)」に代わる私自身の倫理であり、同じ場所から来た者として果たすべき責任だと思っています。

  1. 法蔵館, 2025 ↩︎
  2. 現役信者の中で、たとえば「六マリアの悲劇」「わが父 文鮮明の正体」を読んだ方が、どれほどいるでしょうか。反対者・批判者の立場の主張に触れもせず、教団から言われた通りの見解でそれらを否定する姿勢は、本当の信仰者の姿とはいえないと私は思います。 ↩︎
  3. 本書 pp.103-105 ↩︎
  4. 公平を期すため本来は全文引用が望ましい部分かと思いましたが、傷ついた被害者が見ることも考えると到底載せることができず、私の主観で最低限の要約でまとめさせていただきました。著者の瓜生さんとインタビュイーのトモキさんには深くお詫び申し上げます。気になる方は本書を直接手に取ってご覧いただければと思います。 ↩︎

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