誤読を誘いかねない新聞記事について:世界日報’24.11.6記事について

旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)系の日刊紙『世界日報に掲載された以下の記事において一部不適切な引用があり、読者に誤った情報を与えてしまうのではないかと感じた話です。

2024年11月6日に掲載されたこの記事は、インタビュイーの教団職員によるコメントが批判を浴びましたが、私が問題だと考えるのは同記事の冒頭部分です。

「宗教団体等によって、『宗教等2世』は、・宗教選択の自由を奪われ・恋愛、婚姻の自由を奪われ・進学、就職の自由を奪われ・その結果、成人後の人生を含む全人生において、全人格を奪われた」

この全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が9月21日に発した声明「旧統一教会の被害救済のため法整備求める」の中で示した一文は、マスコミで報道される「宗教2世」のイメージを端的に表していると言えよう。だが、信仰を持った親が子供とともに信仰をするとき、子供の自由を奪い、全人格を奪う――ということになるのだろうか。

学術誌「宗教研究」(2024年9月)に掲載された小島伸之氏(上越教育大学教授)による論文「『宗教2世』と子どもの権利」では、「仮にそれらの悩み・苦しみ・つらさを程度を問わずすべて『人権問題』『社会問題』として問題視」するならば、「行き過ぎである」と指摘している。「信教の自由や親権との深刻な葛藤」を生じさせ、「デリケートな親子関係や人間発達過程の機微を破壊することにも繋がりかねない」というのだ。

【連載】脅かされる信教の自由㊳ 第5部 歪められた「2世」像 宗教2世は自由を奪われたのか

私はこれを最初に読んだ際「全国霊感商法対策弁護士連絡会(以下「全国弁連」)やマスコミが「宗教2世」の被害を過大に捉えている。そのことを専門分野の大学教授が学術論文1で懸念を示した」のだと理解していました。

ただ、その論文の引用箇所が不自然に短い文章のつなぎ合わせであり違和感を覚えたので、引用元の論文を取り寄せ全文を読んでみました。

2024.12.31追記
本論文の全文がJ-STAGEにて無料公開されました
https://doi.org/10.20716/rsjars.98.2_3

その結果、やはりこの引用は論文の趣旨や前後の文脈を無視したものであり、事実を正しく報じたものはいえないという結論に至りました。

目次

文脈を無視した引用ではないのか

論文の原文を読んだところ、記事で引用された箇所は「「宗教2世」問題」という用語の学術上の定義に関する部分であることが分かりました。

「「宗教2世」問題」の説明(定義)にも同様の問題がある。塚田は、「「宗教2世」問題」について、「何らかの「宗教2世」当事者が、その帰属や生育環境、家庭と集団における規範や実践の規定力・影響力ゆえに、何らかの悩み・苦しみ・つらさを抱えて生きていかなければならないという人権問題・社会問題のこと」と説明(定義)している。ここで、塚田は、「「宗教2世」問題」は、「社会問題」「人権問題」であるとするが、「人権問題」「社会問題」とはなんなのかという解釈上の問題が生じる。
この点については、2つの読み方が可能である。ひとつは、家族の信仰によって何らかの悩み・苦しみ・つらさを抱えていること一般を「人権問題」「社会問題」ととらえているという読み方である。家族の信仰(のみならず親の考え)によって何らかの悩み・苦しみ・つらさを抱えている人々は、常に一定程度存在する。それに目を向けること、寄り添うことは大切であるし、それらを拾い上げて分析することには社会的な意味だけでなく学術的意味もあるであろう。だが、仮にそれらの悩み・苦しみ・つらさの程度を問わずすべて「人権問題」「社会問題」として問題視することを含意しているならば、それは1つの立場とはいえ、やはり行き過ぎである。もし家族外の介入による「問題」の調整まで視野に入れているのであれば、そうした試みは信教の自由や親権との深刻な葛藤を生み、また、有機的でデリケートな親子関係や人間発達過程の機微を破壊することにも繋がりかねない。

小島伸之 (2024) pp.180-181. (黄色マーカーは本ブログ筆者による)

世界日報記事ではこれを、以下のように細かく切って引用しています。青マーカーが上記論文からの引用部分ですので、上の原文と比較していただければと思います。

学術誌「宗教研究」(2024年9月)に掲載された小島伸之氏(上越教育大学教授)による論文「『宗教2世』と子どもの権利」では、「仮にそれらの悩み・苦しみ・つらさを程度を問わずすべて『人権問題』『社会問題』として問題視」するならば、「行き過ぎである」と指摘している。「信教の自由や親権との深刻な葛藤」を生じさせ、「デリケートな親子関係や人間発達過程の機微を破壊することにも繋がりかねない」というのだ。

【連載】脅かされる信教の自由㊳ 第5部 歪められた「2世」像 宗教2世は自由を奪われたのか

引用元の文脈を無視しているばかりか、これでは読者にあたかも以下のような事実が存在するよう誤読させてしまいます。

全国弁連やマスコミは「宗教2世」の全てが被害者であるかのように発信を続けている。だが専門家の教授は学術論文において「悩みや苦しみ等の程度も考えず全部が全部を問題視するのは行き過ぎだ。そういう見方は信教の自由や健全な親子関係を阻害する等の問題を生じかねないものだ」と懸念を示している。

引用元の論文で「行き過ぎ」が指すものは、あくまで学術用語の定義に関することです。マスコミや支援者の活動姿勢に対して「行き過ぎ」と懸念を示したものではありません。

これは果たして、日刊紙の書き方として適切と言えるのでしょうか。

引用元論文の趣旨は?

ここで、引用の問題とは別に論文全体の趣旨が「宗教2世」問題を過大に問題視することに懸念を示しているのではないのか?という疑問を持ちました。

そこで全体を読んでみたところ、そうとはいえないことが分かりました。

論文の総括部分をみると、銃撃事件後のメディアラッシュには批判すべき側面は少なくなかったにせよ、それがなければ世論も政治も動かないのが日本の政治・民主主義の現実。だからメディアのもつ社会的機能の1つとして「今回のメディアの行動は目的合理的行為であったとの理解はある程度可能である。」と述べています。2メディアや支援者の行動を「行き過ぎだ」と懸念する意図は、私は、この論文から読み取ることができませんでした。

その一方で、メディアがセンセーショナリズムに走る時、アカデミズムにはその行き過ぎや偏りを指摘する役割“も”求められる。だから「アカデミズムとジャーナリズムは互いの社会的機能の違いを踏まえながら、あるべき関係性をあらためて模索していかなければならない。」と述べています。3

まとめ

旧統一教会系の日刊紙である世界日報としては、現役の教団職員の声や専門家の学術論文を裏付けに、マスコミや全国弁連が「宗教2世」の問題を不当に誇張して取り上げているという問題提起を行いたかったのであろうことは理解できます。

しかし、ここまで見てきたように引用元の論文にそのような意図はなく、むしろ(批判は少なくないものの)今回のマスコミの行動に一定の理解を示す記述さえあります。

にもかかわらず、違う文脈上にあった「行き過ぎである」という言葉を自説に合うよう切り抜いて引用を行ったことで、原文にあたらない限り読者に事実を誤認させる記事となってしまいました。日刊紙の記事として、やはりこれは不適切であると私は考えます。

付記: もう1つの引用箇所について

なお、世界日報記事では同論文からもう1つ引用を行っていますが、ここは特に問題ないと思います。

また、世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)の問題に対するメディアや政治の対応に触れ、「信教の自由の限界をどう画するのか、親子間の信教の自由の葛藤を国家がどの程度どのように調整するのかといった論点についての本質的な議論は、個別的な統一教会問題への迅速な対応ありきという前提によって糊塗されてしまったように思われる」と懸念した。

個人的な所感を述べると、こうした本質的な議論は必要だと私も思います。しかし現状、誰がどのよう推進していくのかが未だ見えてこない。このままだと「個別的な統一教会問題への迅速な対応ありきという前提によって糊塗されてしまった」という論文筆者の懸念が的中してしまいます。そうならないためにも、具体的に推進する必要のある課題であると考えています。4


  1. 小島伸之. 「宗教2世」と子どもの権利 : ジャーナリズムと学問の間. 宗教研究. 2024年;98(2):171–195.
    https://doi.org/10.20716/rsjars.98.2_3 ↩︎
  2. 上掲書 p.191 ↩︎
  3. 同上 ↩︎
  4. 既に日本弁護士連合会声明「三本の矢」・当事者団体の活動・また筆者も参加した統一教会2世有志で発出した提言(https://insaem.jp/proposal0001/)等があります。これらも参考に、具体的な推進がなされることを、強く望むものです。 ↩︎
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田村 一朗(仮)のアバター 田村 一朗(仮) HN: インセム(인샘)

旧統一教会(世界平和統一家庭連合)
2世元信者 信仰2世(ヤコブ)

この教団に長く身を置いてしまったことを悔いています。統一教会とは何なのか。なぜ信じたのか。この教団は日本社会にどんな影響を与えたのか。問い続けていきたいです。

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